原作の牛島秀彦さん
●●●●● ストーリー ●●●●●
『消えた春』そして原作に忠実に映画化された『人間の翼』のストーリーを紹介しておきます。《》内は『消えた春』からの引用です。
佐賀商のエース石丸進一は、とにかく野球の虫だった。バッティング投手を買って出ては全力投球。
監督からノックを任されても手加減なしだった。
火の出るような練習の後、たまたま寄った書店で生涯の恋人にひと目ぼれした。
桜井圭子という東京から越してきた佐賀高等女学校の生徒だった。
彼女は以前から捜していたという『マリ・バシュキルツェフの日記』という本を買った。
圭子が去った後、進一は同じ本を求めたが絶版のため、もうない。
店員にメモを書いてもらい、すぐに生まれて初めて県立図書館へ走った。
その本はロシア人の女性マリ・バシェキルツェフが書いた日記文学であるが、
彼女は24歳という若さで死んでいくためか、時間に対して敏感であった。
《頁をめくると、次の文があたかも弾丸のように進一の目にとびこんできた。
「私は直に十八になる。十八といふ年は三十五の人から見れば僅かなものであらうが、私にとっては僅かなものではない……」》
いつ戦争に行かなければならないか、
わからないという時代ゆえ進一自身も《俺(おい)の生きらるッ持ち時間も、そうはなかごたる》と自覚していた。
《やっぱい此世に生きた証拠残さんことにゃ意味のなか。……そすっと、
俺に出来(でく)っこたあ、野球で身ば立つほかはなかじゃなかか―》
こうして、進一は苦しかった家計を救うという目的もあったが、当時海のものとも山のものともわからなかった職業野球へと
進む決心を固めたのだった。
そしてマリ・バシェキルツェフに桜井圭子の姿態を重ねるように、進一は圭子への思いを募らせていった。
佐賀商卒業後、進一は兄藤吉(故人)の後を追って名古屋軍に入団、史上初の兄弟選手が誕生した。内野手として入団したが、
バッティング投手などで投げ込みに投げ込みを重ね2年目の昭和17年、念願の投手転向を果した。

弟・進一(左)、兄・藤吉(右)は
日本職業野球初の兄弟選手だった。
キレのある外角低めへの速球と絶妙のコントロールが武器で牛島さんは「巨人の桑田のようなタイプ」と言う。
小さいわりに柔らかい体をいっぱいに使って大きく投げる「野茂のような投手」という証言もある。
だが、僕には新聞で読んだ、進一の妹・奥村光子さん(70)の言葉が一番「石丸進一投手」をくっきりイメージさせた。
〈テレビ中継で中日の鈴木孝政(現二軍投手コーチ)を見た時、思わず「進ちゃん」と声を掛けた。
柔らかな投球フォーム、マウンドで絶やさない笑顔。佐賀商時代の進ちゃんにそっくりでした〉
(95年1月9日付中日新聞『時代の疾走者たち−さよなら投球/石丸進一 』より)
ともかく石丸進一は一瞬の輝きのような2年間を送った。
◆17年 56試合登板 17勝19敗 防御率 1・71(12位)
◆18年 43試合登板 20勝12敗 防御率 1・15(4位)
10月12日後楽園球場での大和戦では戦中最後のノーヒットノーランも達成している。
しかし、厳しい戦局の中、翌日のどの新聞にも「無安打無得点」の文字はなかったという。
チームメートには戦後1950年(昭和25年)松竹ロビンスをセ・リーグ初代優勝チームに導いた小鶴誠や54年(同29年)
中日の初の日本一に貢献した西沢道夫(故人)らがいた。
進一らは、当時の職業野球の選手がよくやっていたように、徴兵逃れの方便として日本大学政治学科にも籍を置いていた。
しかし、皮肉にも進一がノーヒットノーランを達成した10月12日に学徒動員令が閣議決定される。
そして10日後、冷たい雨の降る神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会の中に進一の姿もあったのであった。
昭和19年2月1日、第14期海軍飛行予備学生として合格した進一は狙い通り土浦海軍航空隊に入隊した。特攻隊の養成所である。
進一はピッチング同様、焼け火箸というか一本気な性格で、本心とは裏腹に「どうせなら敵艦に突っ込んでやる」とばかりに、
「帝国軍人」の模範的な言動をとった。
そして、その裏には当時東京に戻っていた桜井圭子に近付けるという憶測も働いていた。
面会の日、思いもかけず圭子がやってきた。〈二人は短い会話を通じて互いの思いを確認する〉
(『人間の翼』パンフレットより)。以後進一は飛行訓練を重ねながら、手紙などで圭子とのやりとりを続けた。
東京が毎日のように空襲されていた昭和19年11月、進一は圭子の家を訪ねた。
そして圭子を連れて銀座にある名古屋軍の球団事務所に出向く。
「特攻」という言葉を使ったわけではないが、死を悟ったあいさつに球団代表も圭子も泣き崩れた。
マネジャーの「俺にできることは?」の問いに、進一はにっこり笑って言った。
《「新しいボールがあったら一個もらえんだろうか。結局俺(おい)の人生は野球じゃからなァ。
ボールは、俺の守り神みたいなもんョ……このボールは、飛行機に積み込んで、最後の最後まで俺と一緒じゃあ」》
事務所を後にした進一と圭子は、日比谷公園で抱き合い唇を合わせた。
年が明けて、昭和20年3月12日、東京大空襲の2日後、進一は圭子を再び訪ねた。
《「私と一緒にどこかへ逃げましょう……お嫁さんにして下さい!」》と訴える圭子に、
進一も《「よおし、俺は、特攻に出ても絶対に死なんぞ。……俺が帰って来ッまで、待っとってくるッか?」と答え抱き合った。
しかしその1カ月後、圭子は死んでしまう。B29による50キロ爆弾の空襲に遭って。
進一にもらったブローチと写真を握りしめ息絶えた。
特攻出撃しても無人島に不時着してでも生きて帰る決意でいた進一は「ケイコシス」の訃報に愕然とした。
そしてついに、その半月後の4月27日特攻最前線の鹿児島県鹿屋基地へ向かう。
5月10日、出撃の指名を無感動に聞くと、野球仲間の本田耕一に言った。
《「本田少尉、いっちょやっか!」進一のその言葉だけで、本田は、最後のキャッチボールのことだろうとすぐ判り》
進一は愛用のグラブと、あのニューボールを宿舎に取りに行った。
《「俺から野球を奪ったのはどこのどいつじゃい!……死んだ圭子ば、俺に返さんかいッ!
進一は赤鬼のような形相になって、今生の思い出と、無念さと、うらみと、怒りを一球一球に込めて投げた》
5月11日、出撃。圭子の写真をしっかりポケットに収め搭乗機に乗り込んだ
進一は、鉢巻をほどき“あのボール”をぐるぐる巻にして、風防を開け、声を張り上げながら地面に力一杯投げつけた。
本田が走って拾い上げると、鉢巻には『われ人生二十四にして尽きる。忠孝の二字』と墨書きされていた。
●●●●● 岡本明久監督に聞く ●●●●●

監督の岡本明久さん
映画『人間の翼』の監督は岡本明久さん。
古本屋で『消えた春』を見つけ「石丸進一の人柄にほれて」映画化を思い立ったという。
原作の牛島さんに話を持って行ったところ「ぜひ映画化してほしいです」という答えが返ってきた。
佐賀の言葉で「いひゅうもん」という言葉があるのだが、岡本さんは石丸進一の「いひゅうもん」ぶりにひかれたという。
「いひゅうもん」とは漢字で書けば「異風者」。牛島さんの記述によると
《へそ曲がりで、極端なテレ屋なるが故に、己の感情を率直に表さず、しかも偽善者ではなく、偽悪家……といったところだ》。
岡本さんは言う。「彼の野球への一途な思いにほれたんですね。
何においても逃げるのが嫌い、時代を真正面から受けとめた人だから好きなんです。
(敵艦に体当りしてやるなどと)勇ましいことを言って“いひゅうもん”ぶりを発揮しながら、戦争によって一番大事な野球を奪われる。
この思いは、今の若い人たちの心にもメッセージとして、十分に響いてくると思うんですね」

原作本「消えた春」
−特攻に消えた投手石丸進一(河出文庫)
原作の牛島さんは『消えた春』は「単なる進一への鎮魂歌ではない」と言っていた。
普通、戦記などでは、特攻というものは強制ではなかったということになっているが、
牛島さんによると本当は自由意志なんていうものではない。
特攻の志願表について書かれた部分を引用する。学生長の言葉だ。
《「われわれ予備学生のなかで一名でも特攻を“希望セズ”という者が出たら、それは予備学生全員の恥さらしだ。
教官殿は、強制でなく志望だと言われたが全員“熱望”に○をつけてくれ…」》
牛島さんは、このさまを「国による死刑である」とし、石丸進一は
「国によって犬死にさせられたのだ」と言う。
そして「死を潔しとする特攻を生む土壌は今でも続いている」とも言う。
監督の岡本さんも特攻というものを生んだ日本ということについては、牛島さんとよく話し合ったそうだ。
「最後のキャッチボールに託した、野球をやりたいという思い…。
生きたいのに生きることができなかった時代に、石丸進一は、そういう思いを残して死んでいったんですよね。
いじめなんかで死んだり殺したりしていく事件が多い今、命の尊さを感じてもらえればと思います」
この作品の、ひとつの柱は当時、無数の石丸進一や桜井圭子が存在したということなのだと牛島さんは言っていた。
僕は「無数の進一」というのは、同じように戦死していった職業野球人・景浦将や沢村栄治だけのことではないと思っている。
進一と同じように無念の思いを抱きながら死んでいったすべての人々。
その中には中国やほかのアジアで、ひどいことをした人もいるだろう。
それは、“いひゅうもん”石丸進一の裏返しではないだろうか。芯の強かった進一は自分を追い詰めたが、
臆病であるために野蛮な行動に走ってしまった…。
特攻も南京をはじめとする大虐殺行為も生んだ土壌は同じではないかと僕は思っている。
それは『消えた春』がなげかける今日的意味であるともいえるだろう。
岡本さんは言う。「死んでいった人には、ひとりひとり、口にはできない葛藤があったと思うんです。
そういう手記にできない声、内面の葛藤を描いたつもりです。
今回、初主演の東根作寿英(とねさくとしひで=NHK朝ドラ『春よ来い』で主人公の初恋の相手を好演)君は
実にデリケートに、いい表情で演じ切ってくれました。
声高に反戦を叫んだものではありませんが、戦争の不条理さというものは伝わると思います。
教材映画ではない2時間15分、この映画と向き合ってほしいです」
牛島さんも認めているが桜井圭子は“仮名”の登場人物だ。進一と親しかったチームメートの小鶴さんも
「進ちゃんにはそんな子はいなかったと思うよ」と言っているそうだ。
作品の中で“圭子”として出てくる女性から進一の母親に出した、生還を祈る手紙は残っている。
また、進一が好きだった女性が存在したというのも確実で、「それらのことを総合して書いた」と牛島さんは言う。
映画でも、岡本さんは圭子とのやりとりは野球とともに中心に描いている。
「甲子園遠征の時には、今でいう“追っかけ”の女の子もいたそうですしね。でも石丸進一は童貞だったそうですよ。
これには牛島さんも確信を持ってるようです。
威勢良く、芸者遊びをしてくるなどと言って出掛けたそうですけど、ほんとに野球しか知らない男だったようです。
“圭子”はそんな進一への牛島さんなりの花むけだと思っています。僕がそう尋ねたら牛島さんは笑ってましたけどね」

映画パンフレット
映画は自主制作、全編モノクロで作られた。これについては「映画の原点にかえりたかったからです」と岡本さんは言う。
「東映や東宝といったメジャーで作ると、何か違った作品になったんじゃないかと思いますね。
お金はもっと使えるかもしれないけど自由が制限される。
特に作品の前半部分は、トーンを落として意識的に淡々と当時の状況を描いたつもりなんですが、メジャーで撮ると、
なかなかそうはいかないし、モノクロというのもダメでしょう。
石丸進一そのものが伝えられたんじゃないかということで自主制作になって良かったと思ってます。
それと野球に戦争というのは、すごくお金がかかるんですね。服装なんか当時のものをすべて用意しなければいけないし、
たとえレンタルで済んだとしても結構高いんです。野球のシーンでは観客のエキストラも多数必要です。
そんな事情もあってメジャー会社は手を引きました」制作費は約2億円。多額なようだが、これでも手弁当による部分が多いようだ。
古い野球道具や写真を用意してくれたのもフェンスに看板がない球場を探してくれたのも中日ドラゴンズだった。
ドラゴンズは名古屋での上映が決まれば球場に看板を掲げてもいいというように全面協力体制だ。
佐賀商と熊本工の試合のロケの時は佐賀市江北(こうほく)町の住民がほぼ総出でボランティア出演してくれたのに、
あいにく雨。途中から土砂降りとなって中断。
それでも次回に順延しては、また金がかかる、と総出でスポンジで水を吸い出したという。
「そんなことばかり思い出しますね」と岡本さんは振り返る。
「ひとことで語れないものがたくさんありますよ。例えばね、当時の雰囲気に似た舗装されていない飛行場を探していたんですよね。
それで、長崎県佐世保にある陸上自衛隊相之浦海兵団を使わせてもらえるようになった。
偶然なんですが、そこは石丸進一が最初に訓練を受けた所なんですよ」
●●●●● 夢は石丸泰輔くんが‥‥ ●●●●●
作品的には素晴らしいものに仕上がった『人間の翼』だが、自主制作ということで、興業面では苦戦を強いられている。
石丸藤吉の子、進一からみれば甥の石丸剛さん(44)は『人間の翼』を作る会の代表として、
資金集めから、興業面まで今も動き回っている。
父藤吉から受け継いだ親和交通というタクシー会社経営と二足のワラジをはく日々だ。
2億の制作費は各種募金・寄付などで大半はなんとかなったという。あとは上映の体制の問題。
地元佐賀ではひと足先に劇場で上映され好評を博した。
東京、名古屋では5 6月をメドに劇場上映を行いたいということだが、
現在は各種団体、学校、公民館、ホールなどでの単発上映会・試写会がほとんどのようだ。
石丸剛さんは「学校上映を特にお願いしたい」と言う。

「人間の翼」を作る会の石丸剛代表
「『人間の翼』は文部省選定映画なんですけど、普通文部省選定なんていうと、つまらないわけです。
それでもあえて、学校で上映して多くの子供たちに観てもらうために文部省のお墨付きをもらったのです」
2月25日には京都の茶道の裏千家の会館で上映会も行った。これは家元・千宋室さんが石丸進一と同じ「第十四期生」で
あったことが、きっかけになっている。
関西でも何かのきっかけで上映できる機会、また足場がないかと、現在模索が続いている。
(職場、組合、地域などで上映してみたいという方は石丸剛さんまでどんどん連絡して下さい。連絡先別記)。
親和交通の社長室には創業者石丸藤吉の原寸大以上の写真がデンと飾られている。
その写真をながめながら、石丸剛さんは言った。

親和交通に残る石丸進一の遺品
「オヤジは叔父(進一)に石丸家を守ってくれと言われたのを、とても気にしていました。
車の免許も持ってなかったオヤジがタクシー会社をつぶさずに来たのも叔父の言葉があったからだと思います。
だから、オヤジはいつも俺には弟がついている。ピンチになると弟が守ってくれるんだ、と言ってました。
今回も何度も、もう上映できないという時がありましたけど、叔父が助けてくれたんだと思いますよ」
1996年、戦後50年から新たな1年目を迎えた今年、
大投手になれなかった名投手・石丸進一の遺伝子を持つ若者が球界に登場する。
石丸泰輔、18歳、法政二高、本格派右腕。石丸剛さんの長男だ。
彼の心は、今は日本球界にはない。メジャーの卵として単身渡米するべく準備をすすめているという。
おとうさんいわく「タマは速いけどコントロールがね…」らしい。
それでも父・剛さんの話によると、すでにプロ意識はたいしたものだ。
「彼は、法政大学で野球をやりたくて法政二高に入ったんです。
高校と大学は並んで練習するんですが、そのさまを見て法政に行く気がなくなったって言うんですね。
甲子園に出たようなスター選手が調整するように投げたり打ったりして終わり、ここに入ったら自分は成長しないと思ったそうです。
体ができていない今は、もっとウエートトレとかやって体を鍛えたいって言うんです。で、それができるのがアメリカだと」
泰輔クンには、おそらく厳しい道が待っているだろうが、
それこそ偉大な石丸進一が付いていると思ってがんばってもらいたい。
聞けば石丸進一の血が流れていることを、はっきり自覚し、誇りにしているという。
石丸進一が果せなかった夢を泰輔クンがアメリカで果す。
アメリカン・ドリームだか、ジャパニーズ・ドリームだか知らないが、これほど夢にあふれた話はないではないか…。